8月15日は終戦の日か?
8月15日は終戦の日か?
2013年にアップしたコラムですが、今日2014年8月10日は台風11号が四国から近畿東海地方に停滞しており、新しい内容をご紹介したい気持ちにはなれません。
皆さんのご家庭のやその周辺で、台風の被害はございませんでしょうか。
今回の台風は、異常なほど四国に停滞を続けていますが、どうか気をつけてお過ごし下さい。
昨年のコラムですが、再掲載させていただきます。
以下は個人的な随想です。
8月15日は終戦の日か?
8月15日は、日本では終戦記念日とされていますが、この日はただ昭和天皇が終戦の宣言文書を読んだだけの日に過ぎません。
実際の無条件降伏文書の調印は9月2日とされており、高校の歴史教科書の多くは9月2日を「終戦の日」。8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」と記されているものが多いようです。
戦争は幼稚園児の遊びのように、片方が「やめた」と言って終われるほど簡単な行為ではありません。例えその内容が受諾であっても、先に始めた戦争を止めますと言って信頼されるような国際関係は何も築けてなかったからです。
ポツダム宣言受諾について
ポツダム宣言受諾と言ってもドイツのポツダムで署名調印したのではなく、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で調印したとされています。
ベルリン郊外のポツダムで、日本の前に無条件降伏に調印するナチスドイツの問題のために集まり、そのポツダムで次に日本に対する終戦案を作成した場所がポツダムだったに過ぎません。
受諾した内容は、「無条件降伏の要求」を受け入れるものでした。
8月15日以降も軍は暴挙を続けていた
さらに、8月15日以降も久米島守備隊住民虐殺事件のような軍部によるスパイ容疑で久米島住民に対する虐殺が行われた記録がありますが、一切の刑事訴追を受けていません。
戦時とは言え、一般住民に対してスパイ容疑で裁判を経ずに処刑する法規はなく、最低限、軍法会議が必要であった事は明らかです。
戦後のせこれほどの暴挙が見逃されてしまうほど軍部も政府も横暴な国だったと考えられないでしょうか。
再び8月15日の意味
戦後、8月15日には、日本各地で平和記念行事が開催されていますが、久米島住民の子孫達にとって、8月15日は何の意味もない日ではないでしょうか。
8月15日に戦争が終わったなら、軍は武器を使うべきではなかったはずです。
しかも守るべき住民を処刑したのですから。この事件を含む沖縄戦の住民を巻き込んだ戦闘をみても、日本軍はあらゆる事を天皇の名の下に、軍の命令として行ってきたのです。
久米島で虐殺された人々は、天皇の名の下に、あるいは軍の命令で処刑されたのでしょうか?
・・・・違うはずです。違うなら、加害者側である軍部はなぜ処分されないのでしょうか。
日本は戦争の被害者か? ・・・日本が始めた戦争
日本は単に被爆国として戦争の代表的な被害者であるかのようなマスコミ報道ばかりが見受けられます。日本が始めた戦争ではなかったでしょうか?
過去の日本が加害者としての実態もあった事を知ろうとする姿勢がなければ、日本に一時的とは言え支配され、略奪され、殺害された人々の傷が癒される事はないように思います。
当時の軍の規律あるいは命令を外れた行為で日本国民にも多大な苦しみを与え、その責任を現在まであいまいにしている事を忘れずに社会を見続けて行く事が必要ではないでしょうか。
「私は貝になりたい (朝日文庫)」を読むまでもなく、命令を出した幹部組織や上層部が責任を回避する構造が戦前ばかりか戦後も根強く引き継がれているように見えないでしょうか。
天災と人災
自然災害(天災)は戦争行為に比べれば被害の規模は遙かに小さく、経験と知恵によりある程度避けられる可能性があります。
ところが戦争という人災は、国組織の利己的な意思あるいは感情に端を発する行為であり、武器を持ったヒトの残虐性は底がないほど深く暗い面がある事を歴史から知らされました。
沖縄や久米島の住民は、まさか日本兵に追われるとは考えなかったのではないでしょうか。
私達自身にもそのまさかの愚かさと残虐性がある事を想定し、一人一人が武器や力を持った時、残虐性がわき上がってくるほど傲慢で愚かな存在でしかない事を忘れてはならないと思います。
戦争を避けるには
戦争は一方が戦うつもりがなくても、他方が攻撃をしてくれば、真珠湾攻撃を機に戦争が始まってしまいました。
単に「戦いません」と言う事を貫くなら、「武器は必要ない事になります。」。
でも武器を持たないだけで戦争を回避できるのでしょうか?
金属製の武器が発明される前、人はそれこそ石器や棒切れで戦ってきました。
つまり武器として使える物がなくても人は互いに殴り合い、蹴り合い、投げ飛ばしたり首を絞めたり、噛み付いたり引っかいたりして争いを続ける性質そのものはなくなりません。
つまりヒトにとって、自制と言う事が最も困難であり、自制心の隙(すき)を自己中心が支配してしまうのでしょう。
ヒトは他の動物に比べ、多少の知識があっても傲慢で利己的な動物に過ぎないのかも知れません。
権力、経済力、知識でさえも、その力は弱い人に対して影響をおよぼしている事を自覚し続け、自分が今、どちら側に立っているかを確認していきたいと考えます。