健全な精神は肉体が健全でも宿らない
健全な精神は肉体が健全でも宿らない
2017年10月、横綱日馬富士(33)が同じモンゴル出身の幕内貴ノ岩(27)に暴行を加えて負傷させた問題で、相撲界に対して各方面から意見が噴出しています。
事の真相はともかくとして、「相撲」が国技とは、いつ誰が定めたのでしょうか?
少なくとも私の認識で、「国技」と法律で定められたスポーツ競技は無いと思っています。
従って、国技もないのに国技館と言う名称の競技場で、様々なスポーツばかりかコンサートまで開催されているのだから不思議で仕方がありません。
要するに、自称「国技館」と言う事でしょうか?
いずれにしても、相撲で最高峰の横綱に至っても、単に相撲が強かったに過ぎず、その業界と言われる相撲協会も「相撲で業績を残してきた方々の集まり」であり、「相撲だけの世界で生きてきた専門バカの集まり」にしか見えません。
またしても、この嫌みな「健全な精神は肉体が健全でも宿らない」事を証明してしまったなら、「健全な精神は健全な肉体に宿る」とする「古事、ことわざ」を改めた方が良いと言う事になる?!事はないでしょう。
但し、優れた能力が優れた人格と結びつけてしまいがちな点については、多いに注意すべき点であると考えます。
<医療の分野も専門医だけでは対応できていない>
他方、この医療の分野でも、専門医ばかりではやはり問題があることを自覚したのか、「総合医」と言うジャンルが設けられています。
この総合医あるいは総合診療医とは、健康上のより広範な問題や疾病に対し、総合的に対応する事を目的としている事になっています。
家庭医と言い換えても良さそうに思えますが、やはり総合的な診療を系統的に学んだかどうかを問題にしているのかも知れません。また、初期診療の大切さを重視しているのかも知れません。
少なくとも専門医だけでは解決できない医療上の問題があるからでしょう(2017年11月)。
という事で、一般庶民の広い視野こそが大切という事でしょう。
それにしても上記の問題は、それほど国民生活に関わらないのに、これほど取り上げなければならないのかどうかも疑問です。
//////////// 2015年9月までに掲載した内容 ////////////
2015年9月4日、「熊ケ谷親方、金槌でも殴打!発覚しないよう見えにくい場所狙った可能性も」と言う見出しで、またしても暴力で「スポーツの力」を誇示してしまった。
その前の2015年3月31日には、山梨学院大(甲府市)柔道部総監督から複数回暴行を受けた元部員が総監督に慰謝料の損害賠償を求め、甲府地裁に提訴しています。
2015年07月04日には、甲子園に出場経験のある愛知県内の私立高校野球部の3年生2人が5月末、1年生部員を暴行し、鼻骨骨折などで全治1カ月の重傷を負わせたとして、日本高校野球連盟から2文書注意処分を受けています。
他方、暴力でなくても権力、経済力、能力のある者が力の弱い者を押さえ込むことは、スポーツに限ったことではありません。
一流大学を出れば他の大学出身者を低く見ているでしょう。美人なら美人でないヒトを低く見ていないでしょうか。 ・・・結局の所、ヒトに健全な精神が宿ることはないのかも知れません。
もし宿るとすれば、何の能力も持たないヒトでしょう。 ・・・・・・・・・以上、2015年9月加筆。
以下の内容は、2013年9月に掲載した「ひねくれコラム」です。 内容を見直した上で、再掲載させていただきます(2014年9月)。
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いかにもひねくれ者の視点ですが、今日のテーマは「健全な精神は肉体が健全でも宿らない」です。 しかも多くの人が「スポーツの力」と言って盛り上がっているときに、あまり盛り下げることは控えるべきかもしれません。でも皆が同じ方向を向きだした時にこそ、毒舌には意味があるはずです。 皆が言っている事と同じ事を言うだけなら、単に勝ち馬に乗っているだけですから。 毒舌吐くなら「今でしょう。」。
(A) スポーツの力とは
東日本大震災後、各著名人が各々の立場で復興支援メッセージを伝えようとしました。中でも「スポーツの力」と言う言葉でスポーツ選手初め、様々な分野の著名人がメーッセージを伝え、多くの国民がそのメッセージに感動を覚えた事だろうと思います。 また、2020年東京オリンピック招致のプレゼンテーションを報道するマスコミも「スポーツの力」を強調していたように感じられました。
しかしながら、その一方で、スポーツにまつわる事件も少なくありません。 例えば、当サイトの「第三者委員会について思う事(1)」でも取り上げましたが、
時津風部屋力士暴行死事件
大相撲野球賭博問題
女子柔道強化選手に対する暴力告発問題
天理大柔道部の暴行問題
大阪市立桜宮高の体罰自殺問題
浦和サポーター警備員暴行問題
横浜スタジアム審判集団暴行事件 全日本柔道連盟の不祥事:助成金の不正使用発覚、連盟理事の、女性への猥褻行為
フィギュアスケートコーチ性的暴行事件
中学剣道部でコーチが殴る蹴るの暴行事件
空手部OBによる暴行致死事件
私立豊田大谷高(愛知県豊田市)の野球部監督、川上貴史容疑者(34)が野球部員を暴行、起訴。(2014年8月20日追加)
日本オリンピック委員会常務理事で衆議院議員の橋本聖子氏によるソチ五輪フィギュアスケート男子代表の高橋大輔氏への無理矢理キス(2014年9月2日追加)
「枚挙にいとまがない」状態、つまり数え切れないほど多いではありませんか。 「スポーツの力」と主張している人やマスコミに対して、これらの事件をどう考えているのかを伺いたいものです。 「スポーツの力」は何を指しているのでしょうか。
はっきり言えば、「スポーツには(スポーツに関わる諸問題さえ解決する)力がない」から上のような状態になっているのではないでしょうか?
「スポーツに力がある」と言われるなら、上記の問題に対するご意見を伺いたいと思います。 いやむしろこれらの問題に対してこそ「スポーツマンの力」を見せていただきたいと思います。感動を与えることよりも、人の生命や人権や尊厳に関わる事ではないでしょうか。
(B) 健全な精神は肉体が健全でも宿らない
学校教育の中では、スポーツを行う事をまるで「良い事をしている」かのように表現されていないでしょうか? この逆は「スポーツをしていない子は良い子ではない。」かの印象を与えかねないかも知れません。
しかし、要は「健全な精神は、肉体が健全であっても宿らない。」と言う事実を認識すべきだろうと思います。 にも関わらず、学校教育の中に「柔道・剣道・空手」が導入されましたが、まったく意味はないでしょう。何が国技かは別として、相撲、柔道、剣道、空手の選手に健全な精神が宿っていなかったから、上記のような事件が繰り返されたのではないでしょうか。
さらにスポーツが出来ない人には、「健全な精神は宿らない?」のでしょうか? つまり、肉体が健全でも精神は別であり、健全な精神は宿らないと言えるのではないでしょうか。
<以下の部分は2014年9月に追加しました>
上の(A)で示した多くの事件には、周囲に止めることの出来る人達は、誰もいなかったのでしょうか?
ほぼ全ての事件で、選手だけでなく競技関係者も同じ場所にいたのではないでしょうか。
にもかかわらず、誰も止められなかっただけでなく、止めようともしなかったとするなら、「スポーツなどくその役にも立たない!」、「スポーツは無力で、スポーツをやっている人達の精神はろくなものではない。」と言われても言い返す言葉がないでしょう。
(C) スポーツ以外でも健全な精神は宿らない
ところが、健全な精神が宿らない事実は、スポーツに限ったことではありません。 勉強が出来、大学で研究に従事しても、データねつ造が行われています。 権力があっても政治資金問題はいつまでも繰り返されています。 事件にはなっていませんが、美人であればそれだけで優越感に浸り、回りを見下し、 頭が良ければ、出来ない子をバカにする。
結局の所、ヒトはわずかな事でおごり高ぶりやすい「愚かな存在」に過ぎない事を自覚している必要があると考えます。 何かに秀でた才能があったとしても「健全な精神にはならない」事を知っておきましょう。 もちろん、私も同じです。
何かに優れている事よりも、むしろ何も出来ないほうが、ヒトは決して傲慢には陥らないのかもしれません。
(D) 「一番小さい者が一番偉い」
「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(聖書ルカ9章48節後半)
上記の言葉はイエスキリストが、「誰が一番偉いか」を議論していた弟子達の前で話された言葉です。ここで言う「小さい」とは、偉くない、低い、という意味で、そう言うヒトこそ謙遜なヒトであり、誰に対しても傲慢にならないヒトを指していると思われます。
そのようなヒトは傲慢ではなく、謙遜だから偉いと言うのではなく、低く見られ、バカにされ、時には虐げられたヒトこそ、真の愛を見いだす事が出来、疑わずに受け入れる事を指しています。
いずれにしろ、社会的に立派な人に対しては、多くの人が利害を考えて接近します。 他方、一番劣っていると思われるヒトに対しては、多くの人がバカにしたり、低く見たりします。しかし、そのような劣っているヒトに対しても、優しく愛を持って接する事が出来るとすれば、何の見返りも求めていない真の愛のあるヒトであり、(A) で示したスポーツの才能がある方々ではありませんし、また(C) で示したスポーツ以外の優秀な方々でもありません。 何も出来ない低くて弱い者こそ、誰に対しても最も謙遜なヒトと言う事になりそうです。
「スポーツにおいても、また他の才能においても」、「力」ではなく、努力している人達への愛が求められているのではないでしょうか。 柔道だけではありませんが、国際大会で勝った時、ガッツポーズをしています。それはそれで盛り上がってはいるのですが、「礼に始まっても礼に終わっていません。」。 勝利を誇っていながら、いじめや暴力に対しては黙ったままです。この勝利の時に、誇った相手は弱い相手に対して誇ったにすぎません。 キリストの示す「一番偉いヒト」ではありません。
(E) 実りある人生とは
あくまでも個人的な意見です。
実りある人生とは、その言葉通り、「実」を多く付ける人生ではないかと思います。 「実」が多いとは、お金持ちになるとか、財産を残したり、大きな仕事を成し遂げる事ばかりではありません。より多くの人を支える生き方を意味します。
自分の回りの人を支え、周りの人のために生きる人生は、周囲に多くの人が集まります。 その結果、それら回りの人々によって自らも支えられ、自らも豊かな人生をおくれる事と思います。
従って、「実」とは周囲の人々です。ご自身の周囲に、人が多ければ「実りのある人生」ではないでしょうか。
このサイトも多くの読者によって支えられています。「実りあるサイト」になりつつある事を感謝いたします。このサイトが続けられれば、私にとっても「実りある人生」になることでしょう。