オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが まとめ
オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが まとめ
—————– 2019年6月、被爆地訪問を振り返って —————————————
アメリカ合衆国のオバマ大統領が広島を訪問してから、3年が過ぎました。
果たして、3年前に比べて2019年6月現在の核の脅威は減ったのでしょうか?
もし、何ら変わっていなかったり、あるいは3年前と同じレベルであったとするなら、被爆地訪問は単なる式典への参加に過ぎなかったのでしょうか?
この点に絞って振り返ってみても、やはり「本音と建て前」の違いは歴然としています。
「本音」は、本心から出た言葉であり、本当の心・考えです。 一方、
「建前」は、基本的方針や原則であり、表向きの考えです。
従って、建前が表向きの考えを示しており、本音でないものの、相手の気持ちをはかって、建前として上辺の意見と解釈されます。
このことから、オバマ大統領は、すぐに出来る見通しもない事を言うなら「ウソ」になるので、日本人の気持ちを推し量って「上辺だけのスピーチ」に終始したのではないでしょうか。
つまり、すぐには出来そうもない「核の廃絶」をスピーチしても、出来ないことを言うなら、「ウソ」になりますので、建前としてのスピーチであったように思いますが、いかがでしょうか。
そして何よりも、日本の総理自身が核の廃絶である核拡散防止条約(NPT)に署名していません。
加えて、そのような総理を選んでいるのは、日本人の多くが指示していることを考えると、オバマ元大統領に期待する前に、日本国民がまず自国の政権を変えること目指さなければならないのではないかと考えますが、いかがでしょうか。
・・・・言い換えるなら、自分たちは何もせず、何かを変えようともせずに他国の大統領に頼るという依存心と自分達の思いだけで、願った平和が守られ、維持できる社会ではないことに気がついていないようにしか見えません。
—————– 以下の内容は2016年7月13日に掲載したものです ———————-
オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが1
オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが2
オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが3
オバマ大統領は被爆地広島を訪問したが4
<私見> ・・・・「絵に描いた餅を見て喜んでいるだけ」の日本人
オバマ大統領の広島訪問は、歴代のアメリカ大統領の行動とは明らかに異なり、明確に世界から核兵器の削減と廃絶を目指していることを世界中に発信したように見えます。
しかし、日本もアメリカも核兵器不拡散条約には署名していません。
<日本は核兵器のない世界を目指していない>
それどころか日本には核兵器製造のための材料は、すでに準備が整っている状態です。
(食材を買い揃えたお母さんが料理をしないと言わない(NPTに署名しない)なら、料理を期待するでしょう!)
従って、一般日本国民が考えているほど、世界から見た日本は「平和を目指している」とは映っていない可能性が考えられます。
<沖縄県民の主権は置き去りにされている現実>
加えて、沖縄に駐留する米軍関係者による犯罪に対して、いまなお1960年に締結して以来、50年以上前の日米地位協定のまま、何ら改訂されていません。
すなわち、1972年に沖縄が日本に返還される以前のままの状態が継続していると言えます。
沖縄が返還される前の契約が見直されずに、沖縄県民の合意も納得も得られることは考えられません。
この状態では、第二次大戦時に地上戦で血を流した沖縄の方々の人権が戦前・戦中のまま置き去りにされていると見ることも出来ます。
このような日米の両国関係は、植民地化された時のまま継続していることを意味しており、沖縄県民の治安と人権を守れない日本は、「主権国家」とは言えません。
<拉致問題でも沖縄米軍基地問題でも日本政府は日本人の人権を守っていない>
その理由は、「政府が自らの力で自分の国を統治し、独立した権利を行使できる国」ではなく、「軍隊を持たない平和主義を自認し、日米平和条約といいながら、アメリカ軍に対しては、日本の法律を適応しない」約束(日米地位協定)をしている以上、少なくともアメリカ軍からは日本人の人権を守れないのです。
現在、日本はアメリカに支配されていないし、占領もされていませんが、米軍に対しては法による治安の維持が出来ない例外規定となっている点では、独立を果たしているかどうかも怪しい国に過ぎないと見ることも出来ます。
<アメリカの大統領にのみ頼る外交で世界平和は築けない>
一言で言えば、国民の安全と人権とを守れない国が、世界の平和を語ってみても意味は無く、まず初めに拉致被害者を含め国民の人権を守る事が第1に求められる事です。
加えてアメリカは、大統領でさえもアメリカ国内の銃規制が出来ない国であり、他国の核兵器まで減らすことは、夢であり、希望ではあっても余りに遠い道のりです。
少なくとも日本人は、まず安全と人権が脅かされている拉致被害者や沖縄の人々を守らずして、平和を望んでもまるで「絵に描かれた餅の見て喜んでいるだけ」ではないでしょうか。
つまり、「幼稚園児の平和ごっこ」で盛り上がっただけでしょう。
<2016年8月6日、追加>
・・・・しかしながら、「絵に書いた餅を見る」だけでも71年もの時間がかかったことをなおざりにせずに、「核兵器廃絶に向け」その一歩を踏み出したことを「ノーベル財団が認めた」ように、私達も評価しなければならない一歩なのでしょう。
・・・・なぜなら、これまで「絵に書いた餅もなく」、「一歩たりとも、一言足りとも前に出ようともしなかった」のですから。
<関連情報>
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