金環日食に対する思いと比べられる事
金環日食に対する思いと比べられる事
おはようございます。今朝、皆さんは金環日食をご覧になりましたでしょうか。
四日市では7時半頃、登校前の子供達が集まる公園で空を見上げている様子を見ました。
中には、金環日食を学校行事として計画し、登校時間を早めて校庭でみんなで観察する学校もありました。
国内で観察される機会は25年ぶりらしく、珍しい現象であることから普段は天体観察などしない人達まで、今回の金環日食を気にしている様子が見られました。
どんな思いでこの金環日食を見たかと言う点では、人それぞれかと思えます。
天文学者達はより正確に太陽の大きさの計測を行うらしい。
また、動物園では金環日食の時の動物達の反応を観察するらしい。
あるいはこの機会に観察用のサングラス?を売りまくったとか。
今回の金環日食を見て一喜一憂とまでは行かなくても、それなりに楽しめた人の方が楽しまなかった人よりも少しだけ幸せかも知れません。
今日は「今回の金環日食に対する人の思い」について考えてみたことを書かせていただきます。
もし今回、金環日食を観察しようとしていたにもかかわらず、観察出来ずにがっかりした人もいれば、それほど落胆しない人もいることでしょう。
恐らく、今回、金環日食を観察できて「良かった。」と感じた人達は、仮に観察できなかった場合には「がっかりと落胆したかも知れません。
他方、今回、金環日食を観察できても「感動しなかった人は、仮に観察できなくてもがっかりと落胆する事はなかったかも知れません。」
要は同じものを見たり、聞いたり、食べたりしても、感動する人と感動しない人がいます。
あるいはがっかりする人もいれば、それほど落胆しない人もいます。
しかし、人の性質とは、同じ事に出会っても「ヒトの性質がプラスの面に現れる」事もあれば、がっかりして落胆するなど、マイナスの面が現れることもあります。
逆に、観察できても感動のなかったヒトは、観察できなくても落胆することはなかっただろうと思います。
こんな事を書いている私は、金環日食よりも「幕内最年長で平幕優勝したモンゴル出身・旭天鵬の涙」の方が印象的に映りました。
わずか数年前には、マスコミや世論からの批判を浴び、私自身も「公益法人であり国技でもある相撲」などすっかり嫌いになっていました。
そんな中でも、黙々と歩んできた旭天鵬の姿やそれまでに流した汗や涙を思うと、こみ上げてきた彼の涙は清々しく、彼の優勝には賞賛を贈りたい気持ちだ。
何が何だか解らない文章になってしまったが、私には金環日食よりも旭天鵬の涙に感動と賞賛を覚えました。 皆さんはいかがだったでしょうか。