面子とプライド (4)「転ばぬ先の杖」を持つには1
面子とプライド (4)「転ばぬ先の杖」を持つには1
前回までに「つまらない面子」は、自らの墓穴を掘ることにつながることをご説明しました。
さて、下記の「転ばぬ先の杖」に似た諺(ことわざ)に「備え有れば憂いなし」と言う諺があります。
この意味は、すでにご存知の通り、災害や事件などに対して、設備や準備を整えることで、被害を小さくすることができると言う意味です。
この場合の「備え」とは、地震や火事、水害などの災害に対する設備的な意味合いが多く含まれているように思われます。
他方、下記の「杖」にも同じように設備的な意味もございますが、むしろ「心構え」の意味が含まれていないでしょうか。
「転ばぬ先の杖を持つ」には歴史の見方が間違っているのでは?
混沌とした世の中では、いつ何が起こるか分かりません。
世の中には理不尽な暴力や権力が横行し、また近年では無差別テロが世界各地で頻発しています。
果たして私達は、こうした世の中を生き抜く為の「転ばぬ先の杖」を携えているのでしょうか。
現実の社会は、暴力に対して暴力で反撃し、これを人類の歴史は繰り返してきました。
つまり、人類は反省も対策も備えや心構えも、充分ではないまま生活を営んみ、愚かな歴史を繰り返してきたのです。
・・・・要するに、ヒトはそれほど「備えも心構えとしての杖も持たなかった」ことを歴史が証明しています。
・・・・そして現在も戦国武将が建てたお城や社寺を通して、それらの武将を崇拝あるいは尊敬してないでしょうか。
・・・・少なくともこれらの歴史から学ぶことは、「勇ましさ」や「強さ」などであり、彼らを称えたり、生き様を学ぶことは単に歴史を振り返るだけでなく、さらなる愚かな歴史を積み重ねることにつながらないでしょうか。
結果的に「備えや杖」にはつながっていない学びである事は明らかです。
そして今も混雑する場所でヒトがぶつかったり、居酒屋やパチンコ店で他の客と肩に触れたの触れないのと、口論になり、遂に殴り合いを初め、「意地が意地を呼ぶ」という面子(めんつ)と見栄の張り合いがあります。
近隣の人間関係だけでなく、外交や利害がぶつかり合う相手に対して、排除ではなく、互いに「転ばぬ先の杖」をどう築くかを考えなければ、いつまでたってもヒトはさほど成長しません。
面子や誇りを捨てることは容易ではない ・・・・「衣食足りても礼節を知らない」
健全な精神は肉体が健全でも宿らない でも指摘したように、国技と言われている相撲や柔道あるいは空手などの武術や武道に長年たずさわってもその分野の不祥事が絶えません。
世界大会と名の付くスポーツ競技会で、優れた成績を収めたからと言って、何ら「人格が優れている」ことの証(あかし)にはならないのは明らかです。
むしろ逆に力が評価されるほど「肩で風を切る」ことは日常茶飯事です。
・・・・結局の所、ヒトの能力と「人格」は、まったく別問題です。
果たしてヒトは、自分よりも経験の浅い他の人や(運動や知識で優れたヒトが)他の人に対してもおおらかで、頭が低く、ヒトを外見で差別せず、年下の人にも見下したりせず、弱い人にでも丁寧な言葉を使うことが出来るヒトは、どれほどいるのでしょうか。
最も小さな者に対してへりくだる者でなければ、小さな者(施しを受けても、俺が出来ない者、貧しい者、弱い立場の者)を大切にすることは出来ないことを意味しています。それほど、小さな者にへりくだることは難しく、多くは何らかの見返りがあるからこそ手を貸したり、助けたりします。
私達にはそれほど、つぶそうとしてもつぶしきれない程の奢り(おごり)、高ぶり、傲慢さを捨てられない者に過ぎないのです。