出生前診断 (3)中絶の実態
出生前診断 (3)中絶の実態
出生前診断そのものに対する懸念材料は、診断検査の結果が中絶につながると言う批判にあります。
しかし、私たちはどれくらい中絶の実態を理解しているのでしょうか?そこで今回は中絶の実態について少し調べて見ました。
まず初めに、国立社会保障・人口問題研究所の2012年版「人工妊娠中絶数および不妊手術数:1949~2010年」を紹介します。
上記資料によれば、2005年以降の人工妊娠中絶の年間件数は、約30万人を切り、2010年にようやく212,665件にまで減少しました。
減少したとは言え大変な数字ですが、上記のリンク先で皆さんが生まれた当時まで少し時代を過去にさかのぼれば、その数字は驚きで自分の目を疑ってしまうような数字が並んでいます。
優生保護法の背景
第二次大戦前から、兵力増強のため、「産めよ増やせよ」と言った政策が行われた時代がありました。しかし敗戦後の日本は、戦前とは逆に人口の増加をくい止めるため、中絶を許す条件と避妊の指導をつけ加えた優生保護法を成立させました(昭和23年、1948年)。
すなわち、当時の「中絶」は戦後のベビーブームを終了させるために合法化されたものです。日本のベビーブームは昭和22年~24年(1947~1949年)の3年間に806万人の子どもが生まれ、食糧難と国の復興再建の遅れが原因で、経済的理由による人工妊娠中絶を合法化したのです。
一方、第二次大戦以前の女性には堕胎罪が厳しく適応され、産まないことを選択できない政策が長く強いられてきました(女性の参政権は1945年の戦後にようやく整いました)。
ところが、優生保護法で女性はようやく、逮捕される心配なしに産まないことを選択できる ようになりました。しかしながら、優生保護法のもとで中絶を行うには、医師の認定と配偶者の同意が必要であったため、女性の意思で決定できる法律ではありませんでした。
女性の意志で決定できないというのは、言い換えると「中絶を女性に決定させなかった。」事を意味しており、当時の女性には主体的な人権あるいは選択権を与えていなかったのです。この法律はなんと1996年(平成7年)に一部が削除された「母体保護法」の成立まで48年間も続いていました。
次回は、中絶に至る前の段階で女性が主体的に避妊できる方法としてのピル承認の背景について述べたいと思います。