出生前診断 (2)中絶の新しい局面
出生前診断 (2)中絶の新しい局面
中絶の新しい局面
現実になされている中絶の多くが、病気を理由にした中絶ではありません。なぜなら、これまで優れた(安全で確実な)出生前診断法がなかったからです。ようやくこれまでよりも安全で確かな選択肢(新しい出生前診断)の一つが増えようとしている現実を良かったと考えられないのは、それぞれの立場の自我が強すぎるからではないでしょうか。
そればかりか、より安全で確実な方法で出生前診断が出来るようになったことを、何か困ったことになでもなったかのような指摘は、何を考えているのでしょうか。
中絶の理由
中絶の理由の多くは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%A6%8A%E5%A8%A0%E4%B8%AD%E7%B5%B6によれば、「自分たちの生活のため」、「経済問題」、「片親、夫婦間の問題」など病気以外の理由が大部分を占めています。
中絶における命や責任を問うなら、これら病気以外を理由とする中絶の方を問題にすべきではないでしょうか(但し、暴行を受けて妊娠し、中絶したと言う例は、年間の中絶件数の0.5%で、この様な場合の中絶は認められると考える立場です)。
より問題にすべきことは、戦後の食糧難の時代は終わっているにも関わらず、現行法ではいまだに中絶において経済的理由を認めていることではないでしょうか。戦後60年を過ぎて、今なお食糧難や飢餓のために子供を養育できないような経済的状況にあるなら、あらかじめ避妊すべき事であり、こちらの方こそ問題にすべきではないでしょうか。
より多くを望んでいるのではありません
出来ることなら、障害がないと言うだけでなく、頭も良くて、容姿端麗で、スポーツも出来る、歌も上手い、料理もうまい・・・・・・きりがありませんが、たった1つだけ「普通の健康であればいい」と思うことを否定しているように聞こえてしまいます。
外見上に障害がなくても、いじめや差別のない社会が出来ていないばかりではなく、最近のいじめ問題を見る限り、社会が守ったり防いだり出来ていないのではないでしょうか。
障害を持って生まれてきた子供の健康上の問題ばかりでなく、勉強、就職、あるいは結婚・・・・・・親ならそのどれも人並みに夢を叶えさせてあげたいと願うのではないでしょうか?
例え誰であっても、国であっても「命の選別」などと言う資格はありません。
国は病気の子供を抱えた家庭の医療費や経済をどれくらい支えているのでしょうか。かつて(優生保護法が改正される1996年までの間)国は戦後の食糧難から中絶を認めてきたのです。
病気の子を持った親の夢や将来の計画を支えているのでしょうか。優生保護法では、改正される1996年までの間、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」事を目的として、病気や障害をもつ子どもが生まれてこないようにするための法律だったのです。
健康な子供を産みたいと願うことが、悪い事かのように批判する判断基準が「命の選択」につながる可能性が懸念されることは現実であっても、大変な子育てを強いる権限は誰にもないはずです。
これらの事実から、国や行政が新しい出生前診断に関して、「命の選別」を理由に批判する立場にありません。
さて、中絶の実数については次の機会にご紹介したいと思います。