視点を変えれば評価は異なる (11)優勝や栄誉賞よりも評価すべきこと
視点を変えれば評価は異なる (11)優勝や栄誉賞よりも評価すべきこと
優勝や栄誉賞よりも
さて、歴代の選手達よりもはるかに数多い優勝記録を樹立し、様々な栄誉賞を受賞した選手は、同僚の困っている問題に対して、口を閉ざしています。
こんな人を尊敬できるのでしょうか?
一目置かれるヒト、尊敬されるヒト
何を持って、あるいは「何に対して尊敬するか?」、「どんなヒトを尊敬するか?」については、それぞれの価値判断によります。
歴史的な偉人伝に出てくるように人物かも知れませんし、また身近な親を尊敬する人もいるでしょう。
いずれにしても、その人物の生き方がどこかで自分にとっての目標あるいは理想であるようなヒトではないでしょうか。
いじめ問題で学校が評価していること
学校でしばしば問題にされる「いじめ」では、いじめる側といじめられる側の他に周囲にはクラスメートがいます。
クラスメートの多くは傍観者ですから、いじめはいつまでもななくなりません。
そのクラスには、勉強が出来る子もいれば、スポーツが出来る子も、歌や音楽の上手な子もいるでしょう。
それぞれが、勉強やスポーツ、音楽に一生懸命に取り組んでいるでしょう。
しかし、いじめられている子を守ろうとする子は余りに少ないことから、いじめはなくなりません。
そしてそのクラスでは、勉強が出来る子やスポーツが出来る子、あるいは音楽が上手な子は、他のクラスメートから一目置かれていることでしょう。
でも、いじめられている子を助けようとしている子は、どうでしょうか?
より評価すべきこと
いじめに限らす、「困っているヒトを助けようとする子」は、頼りにされることはあっても、あまり「一目される子」では無いかも知れません。
なぜなら、勉強は平凡で、特にスポーツが出来るわけでもなく、音楽も上手ではないからです。
でも、私が尊敬するならそんな子(いじめられている子を助けようとしている子)です。
その子は、一目されることもなく、何をやっても平凡です。
でも困っているヒトを何とか救おうとしています。・・・・こういう子がほとんど評価される事はありません。
でも私は尊敬します。
勉強もスポーツも、また音楽もごく平凡であっても、たかだか学校で学ぶ程度の勉強に過ぎず、スポーツや音楽は取り組むヒトにとっては楽しみであり特技であっても、直接ヒトを救う上ではそれほど役に立ちません。
例え、その競技や演奏会が国際試合であっても、自分の特技を披露しているに過ぎず、困っているヒトがその競技や演奏会で助かることはありません。
さらに加えるなら、医療あるいは医師であっても、医師自身の(利益の)ための医療なら、たいしたことはありません。患者さんのための医療を目指し、日々診療することが大切だからです。
・・・・「視点が変われば評価は異なる」と言うことです。
では学校で評価の対象となる子とはどんな子でしょうか?
・成績が良い子 ・・・・・・教師としての力量が評価されるからでしょうか?
・スポーツが出来る子・・・対校試合や競技で学校の名前が上がるから?
・協調性のある子 ・・・・クラスをまとめやすいからでしょうか?
・・・・・いずれにしても学校にとって都合が良いからかも知れません。
少なくとも、こうして評価された子が、大学生、社会人となってから、果たして「困っているヒトを助けようとするのでしょうか?」
・・・結局のところ、自分のためだけの勉強であり、自分の評価を上げるためのスポーツであり、全体のまとめ役かも知れませんが困っているヒトが救われることは期待できるでしょうか。
これらのことから、もっと評価する視点や軸を見直すことが必要ではないでしょうか。