イチローの引退会見と社説での取り上げ20190323
イチローの引退会見と社説での取り上げ方20190323
2019年3月22日、大リーグマリナーズのイチロー選手は、大リーグの開幕戦となる東京ドームで行われたアスレチックス戦2試合に出場後、現役引退を発表した。
引退記者会見の様子は、すでにYouTubeで公開されています。
そして翌、3月23日、報道各社はそろって社説に取り上げ、彼の偉業を讃えると共にその影響力の広がりを伝えた。
引退記者会見
彼の独特な視点に関心を持たれるなら、上に示した記者会見の様子を見て頂きたい。
聴くヒトそれぞれが、どの言葉に惹きつけられ、感銘を受けるか、あるいは同じ思いを共有できるかは異なるだろうと思います。
それでも、野球関係者以外の方々にも多くの示唆を与えられるほど、彼が野球を通して多くを学び、自らに挑戦し続けた事を言葉で現した影響は、野球やスポーツの範囲を超えて、様々な分野の方々に対しても耳を傾けたくなる内容と思われます。
さて、あなたご自身は、彼のどのような表現に心を動かされたでしょうか?
私の受け止めた言葉
「成功すると思うからやってみたい。
それができないと思うから行かないという判断基準では、後悔をうむだろうなと思います。
できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。
その時にどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんですよね。」
・・・上記から、人生において出来るか出来ないかわからないけれども、チャレンジすることの大切さを感じられます。
その理由は、自分自身が出来るか出来ないかわからないけれども、チャレンジしなければ成功はなく、チャレンジしなかったことに後悔が残るだろうと言う経験をしてきたからだろうと思います。
そして別なカ所では、
・・・・(努力を)重ねることでしか、後悔を生まないということはできないのではないかなというふうに思います。
さて、問題はここからです。
チャレンジしない人生を過ごすことにつながらないか?
最近は、少子化の影響もあって大学受験に失敗したからと言って、自殺する青少年は少なくなりましたが、数十年前は毎年のように受験で挫折し、人生を諦めたニュースは今よりは多かったように思います。
その一方では、「成果主義がダメにするもの2」で示したように、高校野球における補欠選手の扱いが教育現場が行うことではないことを指摘しました。
その内容は、以下の通りです。
学校におけるスポーツでは、希望する競技に取り組んで見たものの、球拾いやレギュラーメンバーのお世話をさせられるだけで学校生活を終えていないでしょうか。
・・・学生がスポーツに取り組むことの目標や意義をどう考えてのことでしょうか?
上記の指摘は、将来のある学生において、チャレンジする芽を摘んでいることになるとは考えないのでしょうか?
多くの野球少年やその指導者こそ、上記のイチローの言葉を受け止めていただきたいと思います。
その理由は、受験やクラブ活動あるいは地域の活動における関わりで、補欠扱いされることや一度や二度の失敗で自分を低く評価し、その後の人生で果敢にチャレンジする意欲が削がれてしまいかねないことが危惧されます。
そのような状態で社会に出た際には、立場の上の者、有名大学を卒業した者、あるいは学生時代において実績のある者を前に、どのような気持ちを持つのでしょうか?
・・・・例えば、自分にはかなわない(できない、出来そうもない)、とても追いつけそうもない、レベルが違いすぎるなどとチャレンジすることを躊躇してしまわないでしょうか。
実際には、簡単ではないかも知れません。
また、いくら努力しても力の差を感じ、
挫折を覚えるかも知れません。
しかし、中途半端な努力しかしないままチャレンジし続けることをあきらめるなら、追いつけないでしょう。
それこそ人並み以上の努力を積み重ね、自らの弱点と向き合わなければならない日々の繰り返しかも知れません。
でも自分が平凡に過ぎないと認識できているなら、非凡なヒト、秀才、あるいは実績のあるヒト以上に考え、工夫し、努力することは当然ではないでしょうか。
そして「アインシュタインから学ぶこと」で示したように、「失敗したことのない人間というのは、挑戦をしたことのない人間である。」と言う言葉を残したとおり、
挑戦しないなら、補欠の人生を歩み続けることとチャレンジしない人生を歩む道を自ら選び取ることにならないでしょうか。
・・・・その挑戦は、自らへの挑戦であることに気付いているかどうか、かもしれません。