忘れる力
忘れる力
外山滋比古(とやま しげひこ)氏の著書に「忘れる力 思考への知の条件」(さくら舎)があります。
外山氏は2020年7月末に亡くなられたが、晩年になって上記を著した。
個人的には、「忘れる力」と言うよりも暗記が苦手な者にとっては、「覚えない力」を執筆して欲しかったとつくづく思った。
食欲と知識欲
食欲は「空腹だから、食べたい」と言う思いが強くなる。
その空腹が耐えられないほどの空腹なら、食べたいという食欲はより強く、より美味しいと感じる力も満足感もヒトシオである事は疑いがないだろう。
外山氏は「記憶」と「空腹」は同じようなもので、「多くを記憶していると頭がいっぱいで、新しい記憶の入る余地がない」と説明しています。
従って、「頭の中を空腹状態にすることで、新しい記憶が頭に入る」と言っています。
かと言って、最初から覚えていないことが「空腹」だとは説明していないけれども、覚えないことも間違いなく「頭は空」であり、「頭が空腹に近い」と考えながら「覚えられない」ことを「学ぶ意欲に転嫁」する生き方で自分をごまかしてきた。
・・・言い換えるなら「覚える(記憶する)」ことが苦手だからこそ「考えるようにしてきた」つもりではあるが、多くの試験では「考えが試験に間に合った」ためしがなく、結果は言うまでもない。
また外山氏は、「記憶をどんどん増やせば、頭が記憶過多になる」ことは、すなわち「知的メタボリック症候群」と言っています。
・・・と言うことは、私の場合、「知的貧困状態」であり、決して「知的スリム」とは言わないだろう。
まして学校における試験の多くは「記憶力テスト」であり、試験が出来なかったからと言って「記憶に余力がある」と言う評価をされることはない。
美味しい料理を食べ残さない時
加えて「美味しい料理なら、誰も食べ残したりはしない」のであるなら、料理人は恐らく自身の料理に誇りを持つだろう。
もし学校教育で「皆が理解して全員が100点をとれるような授業」だったなら、教育者側は大いに誇って頂きたい。
ところが現実は、教育者が自らを省みることはなく、試験が出来ないものは努力が足りないと評価している。
本を読んでも「わかりやすい説明でないからこそ、記憶しにくいのである」ことを多くの本の著者は理解すべきだろう。
・・・・これを言い換えるなら「わかりやすい説明だからこそ、記憶しやすく、面白と知的食欲が湧き上がる」のだ。
従って、ろくすっぽ説明もせずに覚えさせられることは、説明が不十分であることを棚に上げ、学ぶ側に努力を強いる教育でしかない。
その結果、暗記が苦手な者にとっては苦痛でしかない。
実際のところ、共通一次試験でトップクラスの秀才は、一言で言えば何でも知っているのだが、果たして「解っているのかどうか?」と言う事になると、解ってはいない。
理屈抜きにして、とにかく短時間に記憶できるし、ある程度の論理的思考力もあるのだが、だからといって必ずしも理解していると言う事ではない。
日本人研究者の研究には、以前より独創性がないと言われ続けてきた。
理路整然としており、参考文献が多いことは論述に引用が追い事からよくわかるのだが、引用が多すぎて研究者の考えが解り難いだけでなく、多くの学説に無難に寄り添っていて、主張がない。
また多くの専門家は、自らの専門領域に集中する余り、他の近隣分野であっても理解が及ばず、一定の領域内でのみ生きているのである。
その結果、他の分野の方々との交流も乏しく、益々、限られた分野での交際範囲でしかなくなると、さら視野は狭くなるだろう。
忘れることの利点とは?
第一に、「忘れる力」はストレスを溜めないことにつながる。
まして「覚えない力」なら、ストレスそのものが無いに近い。
恨み言でも「忘れる力」があれば、人間関係の修復も容易であり、「覚えない力」なら、人間関係がこじれると言うことも無いのかも知れない。
これらを考えるなら、「記憶力の優れた人」と人間関係がこじれると、恨みやストレスは継続するので修復は難しいかも知れないと言う欠点につながる。
従って、学校で「覚えろ」とか「忘れてはいけない」などという教育では、人間関係の修復を難しくしている可能性まで考えられる。
いずれにしろ「忘れる力」や「覚えない力」も生きていく上では、ストレスを減らし、人間関係を円滑できる「素晴らしい素質」と見ることも出来る。
付け加えるなら、「忘れる力」や「覚えない力」は、努力しなくても自然に忘れ、恨み言を長期に記憶しないことも、努力無く覚えられないとしたら、やはりこれも才能の一つである可能性もある。
・・・・などと言う「逆説の生き方」も外山氏の著書であることを紹介しておこう。