ラケット握らずコートに立っても
ラケット握らずコートに立っても
2021年02月03日の朝日新聞朝刊、11面の「多事奏論」、編集委員の高橋純子さんの指摘されるご意見が、早速、翌2月4日には、あちこちのサイトで評価されています。
この「多事奏論(そうろん)」の多事とは世間を騒がせていることを意味し、奏論についてはネット検索してもヒットしないが、概ね社会がどのように見ているかを理論的に申し上げる謙譲を意味している新語だろうと個人的には捉えています。
さて、その指摘は以下のリンク先に掲載されていたので引用させて頂いた。
緊急事態の首相 ラケット握らずコートに立っても
また、下には朝日新聞をスキャナーで画像としてとりこみ、掲載させて頂きました。
上の奏論については、批判的なブログサイトもあり、読む側の首相に対する期待や希望を背景とした個人の社会的指標により、評価は分かれる事と思います。
しかしながら、上記に対する「ツイッターのコメントは、こちら。」 あるいは「こちらにも。」を見る限り恐らく比較的多くの国民はこんな的(まと)を得た見方が出来るとは、素晴らしいと捉えているように思われます。
私個人も 総理の対応をドッジボールと見るなら、今後、どうやってラケットの扱いを身につけるのか気になっています。
そしてラケットを持っているだけではゲームになりません。
打ち返すこともなく、野党のサーブエラーを待つだけでも、審判である議長を味方につけているので、議論もなく勝ち続けるような試合(国会運営)を観客(国民)は我慢して見ていなければなりません。
これでは国会は「出来試合(レース)」そのものになっていることと考えられそうです。
ただ、それでも今のリーダーを選んだ政党を多くの国民が支持している結果である事を考えると、結果的に国民は今のドジボールのような政治を支持していいる事になる。
選んでしまってから、今の状態ではダメだからと言ってみたところで、その責任は国民自身にもあるだろう。
仮に投票に行かなかったからと言って、責任を回避することは出来ないにも関わらず、評論家ぶって批判してみたところで、何も変わらない。
しかし、このような視点で社会を見る記者・論者のいることは個人的にはうれしく思う。
<補足>
アメリカの大統領選の報道を見て、意見の違いがあれほどまでの差別や弾圧・強権に結びつきやすいことを知った上で、いろんな意見に耳を傾けたいと思う日本人は少ないないだろう。